2017年8月 白壁賢一コラム

富士北麓の歴史散歩 第1話
「本栖湖に泊まった織田信長」~故郷との歴史をたどって~

 平成25年6月、富士山が世界文化遺産に登録されてから、早くも4年が過ぎました。
 今、国を挙げての観光事業の国際化推進にあわせて、富士山麓は国内からの観光客の来訪が引きも切りません。山梨県と静岡県にまたがる富士山世界文化遺産の構成要件は大きく分類すると合計25件になりますが、さらに細かく分類すると合計33件になります。大きな分類の中の「富士山域」という項目の中に吉田口登山道、西湖、精進湖、本栖湖など9件が細分化して登録されています。細分類の33件の所在地は山梨県域21件、静岡県域12件となっています。
 富士山の世界遺産については、当初は「自然遺産」としての登録申請を計画していたのですが、噴火活動によって形成されたコニーデ型と呼ばれる円錐形の山容は世界には富士山以外にも各地に散在しているというユネスコの指摘もあり、世界のコニーデ型火山の中でも、「庶民信仰の霊峰」として際立って「歴史と直結した山」、すなわち「文化遺産」として評価されたのが登録決定への決め手でした。
 以上は、富士山の世界文化遺産の概略ですが、世界遺産への登録はこの恵まれた自然と歴史の中で毎日を暮らしている私たちにとって故郷の歴史を改めて学び直す、良い機会ではないでしょうか。これからしばらくは、登録された世界遺産を含めながら、私たちが暮らしている故郷にはこんなこともあったのかという「ふるさとの歴史の散歩道」を散策してみたいと思います。

 かつては西八代郡上九一色村と南巨摩郡身延町に属していた富士五湖の西端の本栖湖は、平成18年に上九一色村の一部が富士河口湖町となり、その3年前の町村合併で旧河口湖町、旧勝山村、旧足和田村によりスタートした新生・富士河口湖町は富士五湖のうち4つの湖を抱えることになりました。
 同町では、旧河口湖町時代の平成12年から、『広報河口湖』に「古の小径」と題して、町内の歴史と文化を紹介する企画を続け、平成21年には、富士河口湖町『古の小径 集成版』として発刊しました。その息の長い歴史散歩の中で、本栖湖の町への所属を機会に紹介されたのが、この「本栖湖に泊まった織田信長」でした。執筆は町文化財審議委員の中村章彦氏です。
 資料は、織田信長の生涯を記録した歴史資料『信長公記』(しんちょうこうき)で、信長ファンや甲斐武田三代の歴史ファンは既に了解済みの項目ですが、町村合併による富士北麓地域への“新しい歴史”とも言えるかもしれません。
 それは1582年のことでした。話は飛躍してしまいますが、最近の中学、高校の受験生は、この年の出来事を「イチゴパンツの明智光秀」と覚えているそうです。実に現代っ子らしい知恵ですね。「イイクニつくろう鎌倉幕府」などの現代版です。6月2日未明に信長が本能寺の変で光秀に暗殺された年です。この年旧暦3月11日、武田軍は今の甲州市大和町の天目山で織田軍に滅ぼされ勝頼が自刃しました。信長は天目山の戦闘には直接加わりませんでしたが、同月19日に信州・諏訪に到着して勝頼らの首実検を行った後、4月3日に甲府の躑躅ヶ崎館に着陣。10日には富士の裾野を目指して、中道往還を伝って本栖湖畔に到着。中道往還は現在の県道甲府精進湖線のルートで駿河・大宮へと通じる街道です。「中道」は甲斐の国から駿河の国へ向かう「駿州往還」「鎌倉往還」ルートの中間にあることが命名の理由とされています。11日には本栖湖畔に一泊、富士の眺望を満喫して帰国の途へつき、4月21日には安土城に着陣しました。この行軍には徳川家康が付き添い、『信長公記』には本栖湖畔での接待ぶりはうやうやしさの限りを尽くしたものだと、記されています。湖畔のどの場所に宿泊地が設置されたかについては定かでないのが残念です。
 本栖湖畔宿泊と富士の眺望を愛でたその2ヵ月にも満たない6月2日に起こったのが本能寺の変でした。
 時代は大きく下って、本栖湖畔には生涯を富士山の写真撮影に捧げた岡田紅葉(1895~1972)が代表作「湖畔の春」として写し残した作品の撮影地があります。昭和10年5月2日のスナップです。戦後の昭和59年からは5000円札の図柄として採用され、現在は1000円札に引き継がれています。晩年の紅葉の弟子として師匠の撮影器具を担いでいた白旗史朗さんは今も日本を代表する山岳写真家として活躍中です。