富士北麓散歩道 第3話
「鎌倉往還」、千年余後の今も発展途上です
鎌倉幕府は「イイクニ」から「イイハコ」へ
「灯台下暗し」という格言があります。海上の航海路の安全対策として設置されている灯台は、はるか10数キロ先の航路までを照らし出しますが、その真下は暗くてよく見通しが聞かない。転じて、自分から離れた場所は分かっても、身近な事については意外と知らないことが多い、というたとえ話です。日本一の山・富士山を毎日眺めている山梨県民で、「富士山には登ったことがない」という人が意外と多いという調査結果もあります。
地域の自然や歴史についても同じことが言えます。自ら日々暮らしている地域のことを、他所に住んでいる方から初めて教えられて、「ああ、そうなのか」と気付かされることも珍しいことではありませんし、学校で勉強した小中学生から教えられることさえあります。私たちの生活基盤となっている富士北麓の歴史や自然について、改めて再チェックをしてみようというのが、このコラムの目的です。
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これまで「古の小径」として、新たに富士河口湖町のエリアに加わった「中道往還」の古道について、その歴史を“おさらい”してみました。
しかし、富士北麓地域にとって、歴史的にも、現在も大きな役割を果たしてくれているのは、甲府盆地から御坂峠を越えて河口湖畔、山中湖、御殿場を経てかつては幕府の所在した鎌倉へと続く旧「鎌倉往還」を軸とする道路網です。「鎌倉往還」は千年以上も前から現在に至るまで、治安道路でもあり、生活道路、物流道路であり、現在は観光道路としても貴重な役割を担っています。
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ところで、一般的な歴史認識として県民の中には「鎌倉往還」は「源頼朝が開いた鎌倉幕府との、交通手段として発達したことに起源とする」と思っている人が少なくないようです。歴史に関しては、近年の研究によって新しい認識が定着しつつあります。
今、中年以上の方は、鎌倉幕府の成立は[イイクニツクロウカマクラバクフ]のロゴを暗記して、幕府のスタートは1192年と確信している方も少なくないようです。当時としては、答案用紙への記載はそれが正解でした。ところが今の教科書には、「幕府が形成されたのは1185年」と記載されています。[イイクニ]から[イイハコ]になっています。年代変更の経過の詳細は長くなってしまいますが、要約すると、「東日本の統一を成し遂げ、鎌倉の政権基盤の発足は1185年、さらに、頼朝が征夷大将軍となったのが1192年」で、現在の教科書には「幕府成立はイイクニ」だったとは載っていません。
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“誤解”の意味合いは異なりますが、「鎌倉往還」成立の起源は、鎌倉幕府成立ではなく、遠く大化改新(645年)あたりまで遡ります。この頃、律令制度の整備と共に宮中の所在する都と地方の国衛(現在の県庁)を結ぶ道路網の整備が始まりました。甲斐の国にも都への道が開かれ、これが甲斐路とか御坂路と呼ばれました。延長5年(927年)に完成した記録『延喜式』には甲斐国の官道として、加古(現在の籠坂)、川口、水市(現在の御坂町)の3つの駅の存在が記され、現在の国道137号、138号とほぼ同ルートだったことが分かります。鎌倉幕府が開設されてからは、甲斐と鎌倉を結ぶルートとして重要な街道になったというのが近世の流れでした。さらに「鎌倉往還」と呼ばれるようになるのは交通制度が整えられた江戸期のことのようだと推測されています。交通要路としての改良、整備がその後も、近代から、現代、そして今現在まで延々と続いているのが歴史の道「鎌倉往還」です。
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地域の暮らしから辿る鎌倉往還の現代のハイライトは、「国道8号」として登録された昭和に入ってからだと言えるでしょう。国道とはいっても道路の最頂部は海抜1520㍍の御坂峠でした。車では通行不能でした。
悲願のトンネルの掘削が始まったのは昭和5年(1930)でした。同年10月、河口湖側で起工式が行われ旧街道を迂回して三ツ峠山腹を通過する現在のルートを開削、トンネル貫通は翌年5月でした。併せて河口・船津間の道路も整備され国道としての機能が完成したのは昭和7年3月でした。「昭和の鎌倉往還」です。全長396メートルの御坂トンネル掘削とその関連工事には地元の働き手ほか600余人が入り、延べ36万余人の力で驚異的な短期間で完成しました。地元の人々の喜びは計り知れず、その後、国道137号に改称された今も、高齢の方の中には、この道を「国道8号」として愛称している人もいるようです。開通70年余を経たトンネルは、今、文化庁の貴重な近代遺産として、国の登録有形文化財に指定されています。
全線が整備された直後の昭和9年秋には、トンネルの河口湖側の一角に、峠の休憩所が建てられ、「富士見茶屋」「天下茶屋」などと呼ばれました。茶屋に逗留中の文人・井伏鱒二を訪ねた駆け出し作家時代の太宰治が昭和13年9月から11月までの3カ月余を過ごし、『富岳百景』の作品を書き残しました。太宰没後には、井伏らが呼びかけ人になって、「富士には月見草がよく似合う」の太宰自筆の一節を刻んだ文学碑が建てられました。皇太子時代の今上天皇陛下も見学にお越しになり話題になりました。
大型車両も通行できるようになった新しい道でしたが、戦後の経済復興による交通量の増加は、旧道規模では支えるのが不可能になり、昭和42年(1967)には現在の御坂有料トンネルが開通し、その後無料化されて現在に至っています。 新トンネル開通の一方で、さらなる交通需要が進行し、トンネルを挟んだ関連道路の改良が継続され、登り車線の2車線化などにより富士北麓・甲府盆地の車での所要時間はさらに短縮されました。近年は関係筋から「御坂第3トンネル」の要望が持ち上がるなど、「鎌倉往還」の変貌はなおも続きそうです。
