2018年3月 白壁賢一コラム

富士北麓の歴史散歩 第2話
昭和天皇も籠に揺られて精進湖から御坂越え

 1582年、前回に紹介した現代流“イチゴパンツ”の年です。この年4月、織田信長は武田家を滅亡に追い込んだ甲斐の国制圧の、わずか2カ月後の6月2日に、本能寺の変で帰らぬ人となりました。戦の後、甲斐から、本国・安土城への帰途、徳川家康の世話を受けながら本栖湖畔で一泊して、駿河の国に向かったのが、「中道往還」という古道でした。
 『甲斐国志』によると「中道往還」は「駿河三条ある中間なるが故に(中道と)呼べり」とあり、その命名の由来が記されています。「中道」は甲斐の国から駿河の国へ向かう「駿州往還」「鎌倉往還」ルートの中間にあることが命名の理由とされています。歴史的には、古代甲斐の国の政治・文化の中心が釜無川(甲府)以東にあったことから、縄文・弥生時代から駿河の国に向かう最短距離のルートとして「文化の道」として栄え、特に鎌倉時代には甲斐源氏の武田信義・安田義定らの武将、戦国時代には武田信玄、織田信長、徳川家康らの名将が往来した古道でもありました。戦国時代には軍用道路として警戒が厳しく、本栖と古関には関所も設けられていました(以上、富士河口湖町刊「古の小径」から)。
 1582年の武田家滅亡、本能寺の変の慌しい動きは、その戦国時代の一つの風景でした。
 そして江戸時代に入ると、徳川幕府による新たな「伝馬制」が敷かれ、中道往還は、駿河と甲府盆地をむすぶ最短ルートとして沼津を中心とする海産物、甲府盆地からの農産物を運ぶ幹線道路として、戦国武者が往来する「軍用道路」から、生活資材を流通させる「産業道路」へと変身していったのでした。
 「伝馬」(てんま)とは各道中の宿駅ごとに備えた輸送用の駄馬のことです。大化の改新の頃には既に国内の各郡衛にはそうした馬が備えられていたそうです。そして戦国時代に入ると各大名が軍事用の伝馬制の整備に力を注いだとされ、中でも甲斐の武田家の伝馬制度(永禄3年・1560-甲州伝馬の制)は他大名の模範とされ、江戸時代の寛永年間(1624-1643)には主要運搬制度として全国に整備されたといわれます。
 今も、甲州の特産品としてグルメファンに人気の高い「アワビの煮貝」は、この産業道路・中道往還の伝馬からの賜物とも言われています。
 沼津から馬の背に乗せられて甲府盆地に向かった海産物の一つ「アワビ」は、腐蝕防止のため醤油をまぶされたといいます。アワビ輸送の道程はおよそ20里(約80キロメートル)。一昼夜かけて、ゆらりゆらりと馬の背に揺られ、甲府に着く時刻には、ほどよく醤油の塩分と香りが沁み込み、あのまろやかな食感が出来上がったというのが甲斐の特産品「アワビの煮貝」の誕生伝説として伝えられています。何百年の時空を超えて今も健在な甲斐の特産品です。
 往還道の最高地点は、現在の精進湖トンネルの上に位置する乙女峠です。
 峠には「生魚の二十里を走る郭公鳥(ほととぎす)」という句碑がひっそりとたたずみ、今はハイキングコースとなっている往還最頂部の往時を忍ばせてくれます。この「生魚」にはアワビも含まれていたことも想像させられます。
 時代は下って大正11年。この年10月3日、当時皇太子殿下だった昭和天皇は約1週間の日程で御殿場から入県され、富士五湖をご遊覧された後、甲府と峡東地方をご視察して帰京されました。今ではあまり知られていませんが、このときの殿下の入甲ルートが中道往還でした。当時は、道路整備もされていない歴史の道を籠に乗って、山梨県側の往還の起点・右左口村(現在の甲府市中道町右左口)に到着した際には、特別仕立てのお御輿風の椅子に座って、村の若者に担がれて入村したスナップ写真が残されています。 さらに時代は下り、昭和45年(1970)には、県道甲府精進湖有料道路が駿河湾地域を甲府から駿河湾地域を結ぶ道路として開通。県営としては5番目の有料道路として開通、その後、御坂トンネルと同様に無料化され甲府盆地と富士北麓地域を結ぶ物流と観光の主要道路として重要な役割を果たしているのはご承知の通りです。以後も道路整備は続けられ平成に入ると、甲府・酒折から旧石和町小石和、旧八代町、旧芦川村から御坂山系を越えて河口湖畔の大石地区に通じ、日本尊命の東征路だったという神話にある「若彦路」に若彦トンネルも開通しました「歴史の道」が現代に引き継がれています。